どろろ

最初に語らせていただくのはどろろです。

 

手塚治虫の名作と言えば「火の鳥」「ブラックジャック」など多数ありますが、

どろろ」も忘れてはならない傑作ですよね。

 

 

 

 

あらすじ

 

地方のしがない領主、醍醐景光は立身出世を願い、地獄堂に祀られた48体の魔物と契約をする。

「これから産まれる我が子を贄にするかわりに、天下統一を果たさせろ」というおぞましいもの。

ほどなく、醍醐の子供は嫡男ながら、目鼻、手足、体の48個所を欠いて誕生した。

 

赤子はすぐさま川に流されるが、寿海という医師に拾われ育てられる。

寿海は手製の義足や義手などを作り、子供の体の足りない部分を補ってやった。目も見えず耳も聞こえぬはずの子供は、いつしか常人と同じように振舞えるようになっていた。

百鬼丸と名付けられた子供は、なぜか妖怪や魔物に付きまとわれる。

 

妖怪たちに「お前の体は48体の魔物が奪っていった」と聞いた百鬼丸は、魔物を倒して体を取り戻そうと決意、寿海のもとを離れ旅に出る。

その途中でコソ泥、どろろに出会い、なぜか懐かれて一緒に行動することに…。

百鬼丸どろろの奇妙な、妖怪退治の旅が始まる。

 

 

↓ネタバレ

 

 

どろろ<漫画>

 

1967年に連載が始まった「どろろ

あまり人気が無かったのか、一年ほどで連載終了となっています。

その後アニメ化されたりして、ぽつぽつ連載が復活したものの、打ち切りだったのか予定通りだったのか、なんとなく中途半端な終わりとなっている…らしいです。

 

とはいえ、百鬼丸が体を全て取り戻すまで描くのも不粋でしょうし、どろろの農民としての戦いを絡めると話が逸れるので、あの終わりで良かったんじゃないかと思います。

 

 

 

 

 

どろろ<アニメ・モノクロ>

 

 

 

1969年に放送開始されたモノクロアニメ。

当時、既にカラーアニメはありましたが、戦や妖怪退治で生々しい血を表現するにあたり、あえてモノクロにしたらしいです。

 

 

主役はどろろ

 

エピソードは前半は原作にかなり忠実、中盤からはアニメオリジナルのエピソードが盛り込まれ、コメディ色が強くなるとともにどろろの活躍が目立ちます。

百鬼丸は原作よりやや大人っぽく、ハードボイルド風な主人公となっていてますが、上記のように中盤あたりから、妖怪を倒す用心棒係になっている感あり。

 

14話の「白面不動」以降はオリジナルで愛嬌のある妖怪が増え、笑える場面も増えます。どろろが活躍するものの、両親が残した宝や、体に刻まれた宝の地図や、宝をめぐるイタチとのエピソードは出てきません。

 

どろろ」の重苦しいテーマが子供達には理解しがたく、受けなかったのか…。

それもそうだ、百鬼丸が体を奪い返す行為は、見方を変えれば親の悲願を打ち壊す事。

権力に抵抗するどろろと百鬼丸の生き方は、この時代の多くの大人たちには受け入れ難く、子供には難解だったのかもしれません。

 

ラストは原作よりも衝撃的な展開ですが、どろろたち農民から見ると「悪者は居なくなりました、めでたしめでたし」でおさまっています。

 

まだ原作漫画の「どろろ」が生まれたばかりー連載中ーの作品。

制作陣も作者である手塚も、百鬼丸どろろの将来を決めてなかったのかもしれないです。

 

オープニングも一揆を思わせる農民の映像から、どろろのコミカルなダンス(?)に切り替わったりして、軸がぶれてる作品ですが、21世紀の現代でも視聴することができるだけで、ありがたいと思います。

 

 

 

 

 

どろろ<映画>

 

 

 

2007年 出演:妻夫木聡 柴咲コウ 中井貴一

 

役者さんは頑張っています。

日本映画の特撮はちょっとショボいのはわかっているので、そこは良いとして。

実写化にあたり仕方のない事とはいえ、どろろが子供でないことが「どろろ」の良さを台無しにしているように思えます。

 

「見た目で性別が判断できない子供」というのがどろろの重要な役割であると思うのですよ。

性差が見えない年頃の子供というのは、別の言い方をすれば「神の物でもあり、魔の物でもあり、人の子でもある」ということ。

この曖昧な存在であるどろろが、時には魔物の心を動かし、時には人の負の感情を引き出し、自らを傷つけた者が傷つくことに涙する。

体を魔物に奪われた百鬼丸を、人の世につなぎ留め、またひとの世に潜む魔物に案内する、そのどろろの重要な役割が薄れてしまったなぁと思うわけです。

 

醍醐や多宝丸の末路に、希望や救いを望んた原作「どろろ」の読者には、こういう物語もありなのかもしれません。

 

 

 

 

どろろ<アニメ2019>

 

 

2019年 叶うなら遠くまで

 

アニメ化されるは嬉しかったのですが、どんな作品になるのか…。

ブラックジャックOVAのように、あんまり大人向けにされるのも抵抗があり、戦闘物のように雄叫びと炎と煙で画面いっぱいにされるも…とか考えて、見ていなかったのですが、先日全話視聴しましたが…よかったです。

 

主人公は百鬼丸

 

こちらはほぼ百鬼丸が主人公になっています。

どろろも活躍はしていますが、常に百鬼丸を気にかけ、おせっかいを焼き、視聴者と共に百鬼丸を見守る役目、曖昧な存在故の役割も健在です。

 

今作では、百鬼丸のキャラクターそのもの、取り戻す体の順番、出会う人の順番、これが効果的に組み替えられています。未央はどろろと供に出会うし、体を奪った魔物は12体の鬼神に集約されています。

 

原作や69年アニメでは、どろろと出会った百鬼丸は既に常人と同じように動き、会話能力すら取得していますが、19年アニメの百鬼丸は剣術は優れているものの、日常生活はなんとかこなしている…という感じ。

食事に関しては野生動物並みで、どろろがあれこれ世話を焼き、少しずつ人らしくなっていきます。

 

魔物から体を取り戻すことで、初めて得る感覚に戸惑う百鬼丸、その姿は危なっかしく、時に壮絶で哀しくもある…。

人の世と修羅をふらふらと行き来する百鬼丸を、全力で守っているどろろがいじらしいです。

 

 

 

人になるごとに鬼神とされる

 

 

百鬼丸が「人」になっていく過程は痛ましいけど無理が無く、体を手に入れたことで逆に不自由になり、弱くなってしまいます。

 

醍醐の里は鬼神が倒されるたび、山崩れや日照りなどの災難に見舞われ、戦局も悪化、領民たちを苦しめます。

じわじわと崩壊する景光の野望が「天下統一」のみならず「醍醐の地の平和」であったことが、領主である彼の気持ちを思うと単純に非難できるものではなく、「トロッコ問題」を思い起こさせます。

醍醐の里から見れば、災いをなすのは百鬼丸であり、彼こそが鬼神でした。

 

 

 

人であらんと鬼神に近づく

 

景光のも一人の息子、多宝丸は百鬼丸を討たねばなりません。それが兄であろうとも、醍醐の里の平和を守るためには、領主の息子として当然の選択でした。

そうすることで、父の関心を引きたい思いもあったでしょう。

「多宝丸」とは、天下統一を約束された景光が、幸多い人生を送る息子にちなんで授けた名と思われます。

しかし彼は「多宝」という名とは裏腹に、満たされた子供時代を送ってはいませんでした。母は常に「ここに無い何か」に思いをはせ、父もまた何かを語れない事があり、両親から無償の愛を感じられなかったようです。

 

多宝丸を支えたのは陸奥と兵庫という名の姉弟。捕虜だった彼らは景光によって救われ、多宝丸の世話係として兄弟同然に育てられています。

鬼神と契約した景光は多くの血を流したけれど、また多くの民を救ってもいるのです。

 

百鬼丸との戦いで、陸奥と兵庫は深手を負います。兄弟でもあり片腕でもあった2人を傷つけられた多宝丸。

彼らと醍醐の里を守るため、再び百鬼丸に戦いを挑む多宝丸。

彼は激しい怒りの為か?百鬼丸の「最後の体の一部」を手にしてしまうのです。

 

燃え盛る醍醐の屋敷で、兄弟の壮絶な戦いが繰り広げられます。

百鬼丸は多宝丸の中に空虚を感じ、多宝丸は鬼神に体を奪われた世界(百鬼丸が見る世界)を体感します。 


多宝丸の中に「人」を見た百鬼丸は、彼にとどめを刺しませんでした。

戦いの後、自らの意志で鬼神を追い出し、「体の一部」を兄に還した多宝丸ですが、鬼神に関わりすぎたか、この世を去ります。しかしその最期は多宝丸にとって生涯で一番満たされた時でもありました。

 

 

 

 

 

食い損ねた鬼神

 

 

ところで、12か所(原作では48)も体を奪われて、よく生きてるなーという素朴な疑問ですが、今作では「百鬼丸の生まれながらの生命力」と「1体の鬼神が食い損ねた」という設定で、かろうじて生きていた事になっています。

 

「食い損ねた」最後の体の一部は、先に書いたように、終盤で鬼神に共鳴した多宝丸が所持します。その鬼神は醍醐の屋敷の下で眠っていたのです。ということは十余年もの間「百鬼丸の体の一部」は、この地で宙ぶらりんだったといことです。

これは母の信心(常に仏に祈っていた)と父が無意識に我が子を守りたいと願ったからなのでは…と妄想します。

 

戦局が悪化し、母は自身の力の無さに打ちひしがれ、父は契約の遂行を強く願い、弟が例え生贄であろうとも、父の役に立っている兄を妬んだ時。

両親の守りが弱まった「体の一部」を、鬼神よりも欲した多宝丸が手にしてしまったのではないでしょうか。

 

そしてその食い漏らした鬼神こそが醍醐景光。共に鬼神となり、我が子を貪ることで大願は成就するはずであったのに、景光にはそれが出来なかった。鬼神になりきれなかったのかもしれません。

 

 

 

 

 

生きる力

 

 

鬼神との契約は破られ、妻も多宝丸も屋敷共に焼け落ち、全てを失った景光

再び鬼神と契約せんと地獄堂に籠った景光は、百鬼丸と対峙し思うのです。

 

鬼神に頼らず、百鬼丸が醍醐の地を継いでいたら…この地は繁栄していたかもしれない、「鬼神が欲するほどの、お前のその生きる力の中に」と。

勘ぐれば、景光百鬼丸を鬼神に差し出したことそのものが、百鬼丸の力を恐れた鬼神が唆したのかもしれません。

 

魔物は常に人の欲や怠惰に付け込んで生きています。

自己の利益の為に人を陥れ、命や財産を奪い、そこに魔物が介入したとしても、自分たちの身が安全であれば目を背ける…。

そんな殺伐とし戦乱の世は、魔物にしてみれば住み心地が良いはずですね。

 

百鬼丸は戦に頼らず、民が力を合わせて生きていく世を築ける、そんな逸材だったのでしょう。

 

 

体を取り戻し、もう一度人として生きなおす百鬼丸、侍に頼らずに力を合わせて生き抜こうとするどろろ

彼らの生きる力が同じ方向を向いた時、二人は再会できるのかもしれません。

 

 

 

 

 

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