こんにちは。本日は本の感想です。
宮部みゆきさんの「三島屋変調百物語」の続きとなります。
シリーズの三作目は 「泣き童子」 六話が収められております。
この六話から感じたのは「災」でしょうか。
これは第二話となる「くりから御殿」が、東日本大震災の後に執筆されており、天災を生き延びた人のお話だということもあります。そして他の話もまた、人の世の様々な「災い」に纏わる話が語られていたからです。
第一話の「魂取りの池」の語り手は”お文(もん)”という娘です。おちかと同い年か少し下あたりという年齢で、嫁入りを控えています。
お文は、聞き手のおちかが自分と同じ年ごろなので、語る気になったのだそうです。「泣き童子」の中では、ほっこりできるお話でした。
黒白の間
今まで触れてませんでしたが、語り手が招かれるのは三島屋の「黒白の間」です。
もともとはおちかの叔父・店主の伊兵衛が囲碁を楽しむ間で、百物語を始めるきっかけとなった客も、伊兵衛の碁敵でした。
その黒白の間に語り手を迎える時、おちかは床の間に季節の花を生け、掛け軸を飾り、もてなしの準備をします。
お文の来訪は秋、おちかは黒白の間に今にも毬が落ちそうな栗の枝を飾ります。
栗が象徴するものは「贅沢」「豊穣」「勝利」といったものです。一つの毬に実が複数なるので「子孫繁栄」ともされているようです。 毬は「魔除け」「保護」です。
語りを終えたお文が去った後、黒白の間の描写は、お文の、そしておちかの行く末を示しているようでした。
泣き童子
さらにちょっとネタバレします。
simsims.hatenadiary.jp
三島屋は「あんじゅう」の後日談で、盗賊に襲われています。
が、同作で投入されたおちかの仲間たち、お勝、青野利一郎、行然坊、丁稚の新太の遊び仲間たち、半吉親分(岡っ引き)などなど…が力を合わせて事なきを得ます。
とはいえ、おちかは身をもって盗賊の恐ろしさを知ったわけです。
この後日談は、おちかを気にかけている人がたくさんいますよ、というお披露目だけではありませんでした。江戸がどんなところか、盗人はどんなふうに仕事をするのかを、読者に予習させるようなものだったのです。
第三話の「泣き童子」は、霜月を迎えた江戸の「ねずみ祭り」から始まります。商家にとっては商売繁盛を願う大切な行事だそうです。
tukitodora.exblog.jp
リンク先のブログさんは移転されて、その後は休止中のようです
三島屋では伊兵衛独自のしきたりとして、奉公人も巻き込んで顔に白粉を塗って「ちゅうちゅう」と白ねずみの真似をするらしいです。通いのものには小豆飯とお酒の土産を持たせ、住み込みのものには仕出し屋の料理が振舞われる…忙しい正月よりも楽しい息抜きなのだとか。奉公人を大事にする三島屋らしい行事です。
「泣き童子」の語り手は、そんな空気を一変させるように、飛び込みで(通常は口入屋の灯庵を通します)やってきた怪しい男でした。
面白いことに、この男が語る話にも”もん”という娘が登場します。
「魂取りの池」を語ったお文と近い年齢で、同じように親に愛され、同じように恋に悩み…同じように悋気もちで…同じように嫁入りの話があり…。
確かに違うのは、お文はおちかにその幸せを願われながら、黒白の間から送り出されたこと。 もんはおちかの中に、いつものようにおさめられたことでしょうか。
男の語りは長いもので、もんに始まり、ある商家が押し込みに襲われる話を経て、もんの話に戻ります。三島屋にも盗人が入ったこともあり、おちかにとっては、かなり生々しく重苦しい話となりました。
この時、黒白の間には白ねずみの絵を掛けてありました。
先に書いたよいうに、ねずみ祭りだからです。
白ねずみが碁盤の上で遊んでいるもので、伊兵衛の碁敵である絵師が描いたものだそうで、語り始めに、男とおちかはひと時この掛け軸の話をします。
男が「物事の善悪を見極めて白黒をつける、という意味があるのだと思っておりました。」と言い、おちかはいつものように「語って語り捨て、聞いて聞き捨て」を伝え「善悪を見極めるなど高飛車なことはいたしません…」と答えます。
この短いやりとりが妙に引っ掛かりました。
己が罪の塊
話が少し飛びますが。
「泣き童子」を読んでいると、いくつかの伝承や都市伝説が浮かんできました。そのひとつが、「今度は落とさないでね」という都市伝説で、これは怪談「六部殺し」が現代版になった感じでしょうか。
ちょっと調べてみたら小泉八雲の「持田の百姓」なども近いお話でした。
「泣き童子」が「今度は落とさないでね」や「六部殺し」と違うのは、子供はただ泣くばかりなことと、罪をとがめる幼児が二人出てくることです。ここがなんとも三島屋百物語らしいと思うのです。
二人目の泣き童子は各々の話通り、かつて罪を犯した者の実子ですが、最初の泣き童子は、身寄りのない「へその緒がついた赤子」でした。
赤子見つけた商家の夫婦は「うちの店の前に見つけたのだから、捨てられたのではなく、うちに預けられたのだ」と大事に育てたのです。
その子は、ただただ人の罪の相を見て取る、無垢な子供だったのでしょうか。
二人目の泣き童子が、実の親に「あたしの罪の塊」と言われたように、一人目の泣き童子も、誰かの罪の塊なのか…。子供の姿をしているだけの怪異なのか…。
「泣き童子」の終いは、またしても黒白の間の掛け軸に視線が向けられます。
碁盤の上で遊ぶ白ねずみに、ほんの少し新たな描写が加えられていました。
なんというか、なんの根拠もないうえに、明確な答えはないけれど、ああそうなのか…と思ってしまいました。
まあ、こう書いていても「なんのこっちゃ?」なのですけどね。
三島屋がねずみ祭りで「ちゅうちゅう」とねずみの鳴きまねをするのは、白ねずみが大黒様のお使いで、ねずみが米蔵に棲みつくほど豊かである、白ねずみが多くなり、満足するほど、大黒様のご加護をいただける…ということらしい。
ねずみが鳴くのはうれし泣きで、豊かさと繁栄の証、ということなのでしょう。
店が繁盛し、町が栄え、人が増えるのは良いことばかりでありません。
人が増えれば、諍いも増え悪人も増えるでしょう。いつのまにか碁盤の戦局が変わるように、自分の資産が減り、心に不信が占めていく。
大黒様の白ねずみが、黒ねずみになってしまうこともあるでしょう。
人を羨み、妬み、嫉み、富むものいれば、貧するものもいる。
我が子を育てられず、手放してしまうもの、始末してしまうものいる。
そしていずれは、泣き童子が生まれてしまうのかもしれない。
「泣き童子」思うことが多すぎて、表題作以外にほとんど触れられませんでした。
というわけで、次回?は「小雪舞う日の怪談」や「まぐる笛」などの感想も書きたいと思います。