今昔百鬼拾遺 月 から「鬼」迚も恐い

 

本日は京極夏彦さんの「今昔百鬼拾遺 月 」について語りたいと思います。

 

こちらは京極堂こと中禅寺秋彦が「憑き物落とし」をする、百鬼夜行シリーズのスピンオフです。京極堂の妹、中禅寺敦子が活躍します。

 

 

月というのは「鬼」「河童」「天狗」というそれぞれ違う出版社から出た「今昔百鬼拾遺シリーズ」の合本でして。3つはそれぞれの別の出版社でありながら、装丁もきちんとシリーズものになってます。

 

 

今回は「月」収録の最初のお話「鬼」について、語ります。

こちらは「鬼」の装丁です。夕暮れの路地でお面を被った女学生さんが佇む、なんともミステリアスなカバーですね。

今昔百鬼拾遺では、中禅寺敦子の他に呉美由紀も活躍します。

呉美由紀というのは「百鬼夜行シリーズ」の「絡新婦の理」に登場した女学生さんですね。「絡新婦の理」ではかなりつらい経験をしてるんですが、なんと今回も友人を亡くしてしまいます。

 

あらすじ

昭和29年3月、日本刀を凶器とした連続通り魔「昭和の辻斬り事件」が発生。七人目にして最後の被害者、片倉ハル子は生前から「先祖代々片倉家の女は、刀で斬り殺される」と友人の呉美由紀に話していた。ハル子は被害者になると予見していたようだった、捕らえられた犯人がハル子の近しい人であったなど、事件に疑問を持った美由紀は「稀譚月報」の記者、中禅寺敦子に相談する。事件や 片倉家の過去を調べる敦子と美由紀、二人は片倉家の「鬼の因縁」「鬼の刀」にたどり着く。

 

 

 

やや読みにくい…のも京極さんの思惑?

 

京極さんの作品は「百鬼夜行シリーズ」しか読んでいないのですが、レビューなどを拝見すると、「鬼」はどうも他作品と繋がっているらしいです。もちろん単体でも楽しめましたが、未読の身としては「ここって重要?」となる部分があり、ちょっと怠くなりました。繋がりのある作品を読まれてる方は「これって…!!」となってニヤリとするのかもです。

 

その「これって…」は別にして、登場人物の会話がぐだぐだして要領を得ない。

これについては美由起自身が「言葉を知らない」とか「上手には話せません」と言っていて、敦子が要点を言語化できるよう、うまいこと美由紀と会話を進めてます。

刑事の賀川、片倉家に縁のある偏屈な研師、事件の目撃者ハル子の母、それぞれが語れない話あり、受け入れ難い事実ありで、口が重いし頭も固い。それを敦子が忍耐強く理詰めで話を引き出していく感じかな。

ここのあたり、じわじわじわっと謎を解いていくも、話者の「恐い」が邪魔をして話が遅い。だからこそ、美由紀の感情的な発言に「よく言った!」とすっきりするのですよね。

 

 

 

も恐

「鬼」は全六章でなりたっていますが、最後の六章を覗いて、書き出しは全て「も恐い」から始まります。若干違うけど意味は同じ

冒頭、美由紀が「も恐いーと云っていました。」というのに対し、敦子はも怖いと云っていた、と云うのはどちらの方…」と確認をします。

更に、事件解決後の最終章、敦子視点の第六章は「も―怖かった」で始まるんですね。

 

「恐い」と「怖い」を作中ではどう使い分けているのか…よくわからなかったです。

「怖い」は主観的に「恐い」は客観的に表す、というのを聞いたことがありますが、個人的にはしっくりきません。観点ではなく、何が「こわい」のかな気がします。

 

なんというか、絶叫マシン、ホラー映画や猟奇事件とか、身の危険を感じたり、悪い事が起きたりする時に感じるのが「怖い」なのかな、と。美由紀の同級生も「辻斬り事件」を怖がっていた…けどどこか他人事だったようです。「怖い」は一時の感情の高ぶりか、傍観者の感情なのでしょうか。あれ?じゃあやっぱり観点なのかな

 

「恐い」は自身に影響してくるのに関与は難しい、触れる事のできない事柄に遭遇した時に抱く感情かな…。悪天候とか…追跡されるとか…鬼の祟りとか。

うーん。難しいです。最終章の敦子の「怖い」は「鬼の因縁」だの「祟り」だのが解明され「辻斬り事件」に「不思議なところが無い」となったからだと思うんですよね。

「今昔百鬼拾遺 鬼 」を読まれる方は、是非、この「恐い」「怖い」に注目して読んでみてください。

 

 

「鬼」とは”ないもの”

作中、敦子が『鬼とは”ないもの”だ。存在しないのではなく、”ない”という形 である』という兄の言葉を思い出します。

タイトルが「鬼」であるように、このお話は「鬼の刀」「鬼の因縁」が付いて回ります。終始”ないもの”を相手にしているわけです。

だからこそ、敦子と会話をする登場人物は、核心から目を逸らすような語りをするのかもしれません。その”ない”という形を”ある”形にしたのが美由紀なのかな。

そして形を得たからには、それは鬼のようだけれども鬼ではなく、ただの「殺人鬼」だった。

この美由紀らしい「憑き物落とし(?)」が「今昔百鬼拾遺」の最大のみどころでしょう。

 

 

続く「河童」「天狗」も敦子共に美由紀が奮闘するので、こちらも楽しみです。

 

 

ところで、百鬼といえば妖怪ですが、この「今昔百鬼拾遺シリーズ」の「鬼」「河童」「天狗」はなんというか、妖怪界隈では別格なんでしょうかね。

百鬼夜行シリーズ」の「鉄鼠」や「狂骨」などは妖怪好きは知っている、くらいの知名度ですが、「鬼」「河童」「天狗」はほとんどの人は知っているでしょう。

 

みんな知ってると言えば「狐」と「狸」、昔から「狐につままれた」とか「狸にばかされた」なんて話があって、妖怪話の常連です。その一方、いや、妖怪とはちょっと違うかも…となるのは私だけ??ではないと思うんですね。

なんというか、もっと人々の暮らしに密着していて、畏れられつつ愛され、神聖なものとされたりもします。その延長線上にいるのが、「鬼」「河童」「天狗」では無いかと。それこそ「恐い」存在だと思うんです。

大物といえば大物で、大衆的といえばそうなんですが、これを「百鬼夜行シリーズ」で敢えて扱わなかったのは、意味があるのかなぁ??どうでしょうね。

 

想像ではありますが、京極堂なら「鬼は厄介なんだ。鬼は”ないもの”なんだから」とか言って、いつもより更に腰が重そう…。そこを「物事を知らない」と自負のある美由紀だからこそ「鬼」と対峙できたのでは…なんて思ったりします。

 

 

事件の謎は、ミステリーファンなら早期の段階で気づきます。

そこをどうやって、敦子と美由紀が、登場人物たちに語らせ、気づかせ、納得させるかを楽しむのがこの「鬼」の醍醐味です。

京極夏彦さんにしては短いお話ですので、是非是非読んでみてくださいね。

 

 

 

おわり。

 

 

 

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